相変わらず煩雑な一年だった
 今年も今日で終わり。私にとって今年はどんな年だったのだろうかと振り返ってみた。
 仕事では、岡山での市場の確保と鳥取県への進出を目標に取り組んだわけだけれど、基本的に目標どおり鳥取県への進出に成功し、わが社の売り上げは、前年比130%の伸びを達成した。さらに、全国進出を視野に入れ、業界団体の全国組織の役員ポストの獲得を目指していたが、7月の全国会議で役員に選出された。それをきっかけに、私が開発したシステムの他県での採用が進み、現在岡山を含めて5県で使われているし、今後採用を計画している県も5県ほどある。というような具合で、まずまずの成果を収めた一年だった。
 来年も、今年の成果を踏まえて、市場の拡大にチャレンジしていこうと思っている。

 友好団体などでさまざまな役をいただいた一年であり、大いに人脈が広がった一年であった。専門学校の評議員に招聘されたり、上部団体の関連会社の役員を3社ほど新たに引き受けた。一週間のうちに何役もこなさなければならず、分単位のスケジュールで動かなければならない時期があったが、それもまた、飽きっぽい性格の私には、楽しく仕事ができることにつながったような気がする。

 専門学校の評議員に招聘されたの契機に、50歳に近づきつつあるが、再学習の必要を感じ、来年は大学院への進学を目指し、社会学の勉強を開始した。これがまた非常に面白く、新鮮な気持ちで学問探求の道を歩み始めている。

 趣味の日本酒では、全国の日本酒のうち、今年中に720余の蔵の酒を飲むことができた。日本酒を深め始めて17年目にしての到達ではあるが、次々に蔵が消えていくという、日本酒に対する逆風が強い中で、日本酒を飲み、旨さを伝え、日本酒を飲む文化を残していくことは、文化的にも非常に意味のあることだと思っており、来年もまた、大いに旨い日本酒を探し、文化としての日本酒を守り発展させるために、引き続きがんばって行きたいと思う。

 そんな私のアフターファイブの活動を中心に、随筆を書いたりしているが、できればそれらの駄文を本にまとめてみたいと思っている。どこか出してくれるところがあるといいのだけれど・・・。

 いずれにしろ私の好奇心を満足させる一年であったことは間違いなく、来年は、もっとドキドキするような一年にしてみたいと思っている。好奇心こそが私の若さの秘訣であり、好奇心が萎んでしまったとき、私の青春も終わると思っている。いまだ青年、生涯青春で人生を大いに謳歌したいと決意しながら、今年の大晦日を過ごしているのだ。
【2005/12/31 15:46 】 | ジャーナル | コメント(0) | トラックバック(0)
年賀状
 年賀状を300枚ほど書いた。といっても、パソコンで作るわけで、手書きのころから比べれば、格段に時間短縮ができる。ところで年賀状を書くという習慣はいつころから始まったのだろう。明確な証拠はないようだけれど、鎌倉時代くらいまでさかのぼることができるようだ。
 身分の高い人は、年賀の挨拶の訪問を受け、身分の低い人は挨拶回りをしなければならなかったようで、江戸時代には、一月いっぱいをかけて挨拶回りをしていたようだ。どうしても回りきれない遠方には、書状をしたため「今年もよろしく」とお願いしたり、贈り物を贈ったということだ。日本の葉書郵便の制度が始まった明治6年以降、遠方以外の人にも葉書を送るという習慣が生まれたのだ。年賀郵便の制度は明治39年にはじまり、昭和24年にお年玉つき葉書が発売され、年賀状の普及に拍車がかかった。
 ちなみに、どのくらい年賀状が発行されているかというと、平成18年用で約40億2000万枚だ。年賀状を何歳から書くのかというようなデータはないので定かではないが、約1億2800万の人口のうち1億人が年賀状を書くと仮定すると、一人平均4枚ということになる。この数字を大きいと見るか、小さいと見るかいろんな見方があるのだとは思うが、1月1〜7日くらいまでの間に、この枚数の葉書が一気に投函されると考えると、おそらく世界にも例を見ない習慣のような気がする。海外の年賀状事情に詳しい人がいたら、ぜひ教えていただきたいと思っている。

 今年、私は約300枚の年賀状を書いた。仕事用とプライベートの合計だけれど、年々増加の一途をたどっている。今年も、本来は出さなければならない人のかなりの人たちに、時間がなくて、出せなかった。あとは、年明けに初めて年賀状をもらった人たちへの返事と一緒に出そうと思っている。年末年始の休暇中は、のんびり過ごすことを基本としており、毎日お酒を飲んだり転寝したりしている。とても年賀状を書く気にならないのだ。
【2005/12/29 15:16 】 | ジャーナル | コメント(0) | トラックバック(0)
 今朝、テレビでホリエモンを見た。今年を漢字一文字で表現するよう求められて、彼が色紙に書いたのは『忘』という字だった。「同じことやってると厭きちゃうでしょ。だから、昔のことは忘れて、常に新しいものを求めていく・・・。」というようなことを喋った。司会の女性も、「人間に忘れるという機能があってよかった・・・。」というように受けていたけれど、本当にそうなのだろうか。

 確かに人間は忘れる。しかし、その前提として、覚える、記憶する能力があることが大事ではないのか。本当は、全部のことを覚えておきたいのだが、容量が決まっているので、すべてを覚えておくことはできない。少しづつ、過去のものから、あるいは又、あまり大事でないことから、忘れてしまうのではないのか。そんな気がする。

 本当は覚えておきたいのに、忘れてしまう。「ほら、あの人、あれ誰だっけ。あの番組に出ていた、そういえば、車のコマーシャルにも出てたっけ、あーじれったい。顔は覚えているのに・・・。」などと、上さんが言いはじめると、一寸疲れる。思い出すまで、ああでもない、こうでもないといい続けるのだ。自分のことは棚に上げて、「老人力が身についたな」などと茶化していたのだが、最近、私も同じようなことをいっていることに気がついた。

 「例の契約どうなっているんだ。何、どの契約ですかって。あれに決まってるじゃないか。倉敷の、そう、あれだよ。」って、何のことだか分かったもんじゃない。
 ところが、人間てのはなかなか優れていて、論理的な思考などはほとんど問題がない。というより、経験値が加算され、若い頃よりも、いろいろな角度から検討され、総合されたその判断は、より正確で理路整然としていることの方が多い。
 人間は一生の間に、持っている頭脳の能力の3割くらいしか使っていないというようなことを聴いたことがあるが、たぶん本当だとおもう。学校で学んだこと、その後の社会生活の中で、実践を通じ、あるいは研修会などで繰り返し学んできたことは、すべて自分の中に蓄積され、同じような問題に直面したときに、より簡単に、上手く切り抜けられるようになっていることを経験したことがないだろうか。特に人間関係など、若い頃には全く理解できなかったことが、今では良く判るようになっている。
 うちの職員を見ていても、就職したての頃は、どうしようもなかったのが、何だか頼もしく見えたりするもの。
 つくづく、人間という生き物は、成長し続けるという、他とは区別される優れた特徴を持った生き物だと思う。おそらくは、死の瞬間まで、その成長を止めることはないような気がする。私も、そのように生長し続けて生きたいと思う。

 忘年会シーズンだが、私は、望年会と読んでいる。というか、書いているといった方が良いかな、読み方は一緒だから。今年の嫌な事は忘れてしまおうということなのだろうとは思うが、もう一歩進めて、来年をどんな年にしようか。そんな風に酒を酌み交わしたら、少し、ポジティブに生きることができないだろうか。そんなことを考えながら、今日も赤提灯と縄暖簾に誘われて、居酒屋目指して、さあ行こう。
【2005/12/24 14:31 】 | エッセイ | コメント(0) | トラックバック(0)
地震大国
 阪神淡路の大震災、北海道十勝沖地震、新潟中越地震など甚大な被害をもたらす地震が続いている。もちろん、その間にも、M3〜5程度の中規模地震は数知れず、という状況だ。日本列島全体の地殻が活発に活動する時期に入っているようだ。
 北から見ると、北海道十勝沖地震、これは、「火山活動と活断層の走向と調和的である」(防災科学技術研究所資料)とされ、活断層だけではなく、火山活動の影響も受けた地震のようだ。
 東北地方では「スラブ内の地震活動が全体的に上昇している」(気象庁資料)と言われているし、「東海地方のスロースリップ(非定常地殻変動)は依然として継続している」(国土地理院資料)。
 こんなに地震が多い。しかも、M6〜8の大きなエネルギーの放出も予想されるほどの東南海沖地震の可能性抱える現在の日本列島で、耐震構造の偽装問題が大きくクローズアップされた。12月14日の姉葉元建築士の国会証人喚問のやり取りを聞きながら、この国の政治の貧困を感じたのは私だけではないと思う。
 トップバッターで質問に立った自民党の渡辺具能議員、どういう偽装があったのかを自分で滔々としゃべった。姉葉氏の回答時間はほんの数分で、渡辺議員が30分以上にわたって演説をした。国会の証人喚問でこういうことをやる。何か暗い意図を感じますな。基本的にはあまり語らせない方がいい。だから自分が喋っている。そんな風に見えます。
 この瞬間に、多くの国民は、こりゃあ背後に大物国会議員が潜んでいるな、と思ったはずです。だから、証人喚問をやったということでお茶を濁す。国が税金を投入して被害者を救済し幕を引こうということではないですか。結局、あこぎな真似をして儲けた連中は、儲け得というわけです。
 コンサルタントの総合研究所、販売会社のヒューザー、ゼネコンの木村建設、平成設計、民間の承認機関であるイーホームズ、陰で暗躍する森派の国会議員という、今回の闇の構図が明らかになることはないであろう。しかし、おそらく最終的には国会議員のところに莫大な政治献金が表に出ない形でわたっていたのであろう。自民党森派が、ヒューザーからの政治献金600万円を返金したとかいわれているが、これは氷山の一角にしかすぎない。闇の中で、はるかに高額な賄賂が動いていることは間違いない。そのことを自民党の渡辺氏の証人尋問が物語っていると見るのは、私の深読みだろうか。
【2005/12/21 17:51 】 | ジャーナル | コメント(0) | トラックバック(0)
冬景色
nagisan

 この間、頻繁に鳥取出張に行くことになった。しかも、この冬一番の寒波と、久しぶりの大雪を知らせるニュースの中を、中国山地を越えて車で鳥取に行くの少し勇気のいることだった。
 黒尾峠は、車道部分の除雪はすっかりできていて、心配することもないように思われたが、気温の表示を見ると、−5度を示しており、凍結の危険を感じた。交通量の多さが幸いして、凍結までには至らなかったが、何となくシャリシャリした感じで、スリップしないかと心配しながら峠を越えた。写真は、12月16日、鳥取県からの帰り、日本原の自衛隊基地を過ぎたあたりで、滝山から奈義山にかけての山容を撮影した。雪が残る山肌。青い空と白い雲。のんびりとした冬の景色だ。
【2005/12/20 15:56 】 | フォトグラフ | コメント(0) | トラックバック(0)
HIV マスコミ ジャーナリズムの精神
 わが国のHIV感染者、エイズ患者の発生動向は、1996年以降増加が続き、性的接触によるものを中心として拡大しつつある。特に、男性の同性間性的接触による感染はHIV感染者の60%を占め、エイズ患者も増加傾向にあることから、予防啓発の普及と検査による早期発見・早期治療の機会拡大が必要である。
 また、異性間の性的接触に対しては、男性のみならず女性、特に若年層への重点的な啓発普及が必要である。HIV感染は、これまでの東京を中心とする関東地域に加え、近畿、東海ブロックなど地方においても報告数の増加傾向がみられ、各地域での対策の展開が望まれる。(厚生労働省エイズ動向委員会の「2004(平成16)年エイズ発生動向 (概 要)」から引用した。

 2004年の新規HIV 感染者数とエイズ患者数の報告数の合計は1,165件となり、HIV に感染した人の総数が初めて1,000 件を超える報告数となった。HIVが日本で大きな問題になった1980年代、マスコミはこぞってこの問題を取り上げた。しかし、その取り上げ方は、いわゆる興味本位のものであり、感染の恐怖を煽るようなもでしかなかった。また、HIV感染者に対する村八分的な対応も生まれた。
 日本のマスコミの一番ダメなところは、「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」ところだ。HIVの問題は、その後も増加していることを見ても、深刻さを深めこそすれ忘れられて良い状況にはない。国を挙げて、エイズ撲滅の取り組みをやっているところはたくさんある。そして、具体的に成果をあげている国も生まれている。にもかかわらず、日本の対応はどうなのだろう。国や自治体を中心に、それなりの努力は為されているようだが、エイズ撲滅のスローガンを掲げて、奮闘する国々には及ばない。その責任の一端が、マスコミにあると私は思う。
 試みに、「日本 エイズ 動態」をキーワードにWeb検索してみる。マスコミ系のHPは最初のページにも、その次のページにも出てこない。問題がより深化しているにもかからず、マスコミはそのことを追求していない。国民の立場に立って、真実を報道すること。国民にきちんと知らせなければならない問題を粘り強く報道し続けること。歴史を創る名もなき一人ひとりの国民の姿を社会に発信すること。私は、マスコミに、それらのことを求めている。
 しかし、現在の、とりわけテレビマスコミはどうだ。政府発表をそのまま垂れ流すだけ、視聴率稼ぎのためには捏造も平気でやる、そんな姿勢ではないのか。9月の総選挙を見よ。小泉劇場といわれた茶番劇に、「マドンナ」「刺客」などの言葉で彩を添え、国民の目を欺いたのではなかったか。自民党圧勝に終わると、掌を返したように、「勝ち過ぎ」などとしたり顔で物申すコメンテーターやエセ・ジャーナリストには、心の底から腹が立った。

 話を元に戻すが、HIV撲滅は今後の国民的課題だ。感染症を防ぐ最大のポイントは「水際で食い止めろ」なのだが、すでに、日本国内に広く浸透し始めているのだ。気がついたときには手遅れになりかねない。マスコミ諸兄が警鐘を乱打してくれることを期待しているのだが、どうにも期待倒れになりそうで怖いのである。
【2005/12/17 11:48 】 | ジャーナル | コメント(0) | トラックバック(0)
ポルノ規制について考える
 インターネット上に溢れている、いわゆるポルノ写真・映画がたくさんある。もともと、しばらくカメラマンをしていたこともあって、一瞬を切り取る写真の持つ緊張感が好きだ。その延長で映画も良いなと思うが、写真の延長で入ったものだから、CGなんかを多用したようなのは全然好きにはなれない。
 写真にしろ映画にしろ、美しさが必要だ。汚い物を撮っていても映像としては美しくなければならない。ポルノ映画も例外ではなく、美しさが必要だ。映像美という点では、インターネットに溢れる動画は、残念ながら全然ダメだね。何とか、美しい映像に出会いたいと、ネット・サーフィンしているわけだけれど、これは良い、というものに出会うことはほとんどない。

 だいたいモザイクが嫌いだ。もちろん、モザイクのない画像を見ることのできるサイトもたくさんある。ポルノ規制している日本の映倫の問題なのだろうが、インターネットの世界がボーダレスであることを考えると、ポルノ規制も意味がないね。
 
 ちなみに、アメリカ・ミネアポリス市で制定したポルノ規制条例では、以下の九点の事項をポルノグラフィーと規定している。
(1)女性が人間性を奪われた形で、性的な客体、物、または商品として提示されている。
(2)女性が苦痛や辱めを快楽とする性的対象物として提示されている。
(3)女性がレイプされることに性的快感を覚える性的対象物として提示されている。
(4)女性が縛られ、切りつけられ、損傷を加えられ、殴られ、または身体を傷つけられた性的対象物として提示されている。
(5)女性が性的服従の姿勢で提示されている。
(6)女性が、その身体の部位(膣、胸、尻を含むが、それに限定されない)に還元されるような形で示されている。
(7)女性が生まれつきの娼婦として提示されている。
(8)女性が動物によって挿入された状態で提示されている。
(9)女性が、貶められたり、傷つけられたり、拷問されたりする筋書きにおいて、汚らわしいものないし劣等なものとして、または出血したり、殴られたり、傷つけられたりするものとして描かれ、かつそれらの状態を性的なものとする文脈の中で提示されているものである(これは女性に限らず男性、子どもまたは性転換者においても当てはめることができる)。
 要するに人権を侵されるようなことが規制されるのであって、それ以外は規制されない。日本のように、モザイクをかければ何でも流せるという方が、間違っていると思うのは、私だけではないだろう。
【2005/12/16 11:19 】 | モーレス | コメント(0) | トラックバック(0)
アダルトな世界
 http://www.persiankitty.com/index.html(ペルシアン・キティ)
 このホームページは、最近覗いたアダルト・サイトの紹介サイトだ。この間の記事が、比較的マジメなものだったので、タイトルが「煩悩の赴くままに」であるのに、おかしいではないかと思った諸兄も多いかもしれない。誰でもそうであるように、私も多面性を持っている。まじめ腐った顔して、小難しいことを語る私、あるときは教育の現場で講義をする私、会社の役員として経営全般を取り仕切る私、そしてまた、単なる中年のスケベ親仁としての私、そのすべてが私の総体であり、個々の私だけを取り出したのでは、それは私であって私ではないのだ。というような小難しいことをまた書いているが、そういう堅い話は止めよう。こういうテーマのとき、堅くなるのはアソコだけでいいのだ。

 とにかくアダルトな世界に向かって、広く股を広げた、ちがった門戸を広げたサイトなのだ。Purrfect Pose of the Week - Every Tuesday というページがあるのだけれど、毎週火曜日に今週のベストポーズな一枚が紹介されている。見るたびに思うのだけれど、みんな美人で、別の職業(例えばモデルとか)でも十分仕事がありそうなものなのに、裸になることを職業にしているのはなぜだろう。
 性を売るのは女性の最古の職業だという。最近は、女性が男を買うというケースも増えているようだけれど、それは、まだ少数派だろうね。まあ、本能に拘わることだからね。男が女を求め、女が男を求めるのは・・・、勿論私もその例外ではありませんよ。
 で、私、思うのですが、買春は犯罪ですよね。でも、実際は、全国を見渡せば、福岡の中洲、兵庫の福原、滋賀の雄琴、岐阜の金津園、東京は吉原、北海道のススキ野などの有名地を中心に、各地に風俗街は必ず存在しますね。この際、公娼制度を復活させ、娼婦の健康診断も国の責任でやっていただいて、安心して買春できるようにしていただきたいと思うのですね。
 じめじめとしたイメージが漂う不倫よりも、明るく買春できる仕組みをつくる方が、よっぽど健康的だと思うのです。
 もちろん、男女同権ということで、女性が買春できる店も置かなければならないと思いますけどね。
【2005/12/15 17:59 】 | モーレス | コメント(0) | トラックバック(0)
弱肉強食
hana1



 花の写真を撮る。しかし、花がメインではないのだ。左側の花弁の下に小さな昆虫が見えるだろうか。実は、この昆虫のことを書きたかったのだ。といっても、生物学的に、この昆虫の種類は何で、どんな性格の持ち主だ、といったことが書きたいわけではなく、私が、この花の前で立ち止まり、その美しさに目を奪われていたとき、この小さな生き物の存在に気がついたのだったが、そのことを書きたいと思う。

 しばらく見ているとやはり小さな蜘蛛が出てきて、すばやくこの昆虫に飛び掛ると、餌にしてしまったのだ。この小さな舞台の上でくりひろげられた弱肉強食の世界。何だか、今の日本の政治状況に似ていないだろうか。
 新自由主義の名で競争させ、勝ち組、負け組に分けるやり方は、勝者の論理である。持てる者と持たざる者、どちらが成功を収める確率が高いのか、すごくはっきりしている。圧倒的に持てる者が成功する確率が高い。持たざる者の中にも、成功を収めることができる運のいい奴もいるかもしれないが、それは例外であろう。持てる者と持たざる者は、明らかにスタートラインが違う。持てる者は、持たざる者と比べると、はるか前からスタートできる。持たざる者は、ずっと後ろからスタートし、持てる者に追いつき、追い越さなければ成功にいたることはできない。
 バブルが崩壊して以降、土地の資産価値が下がり、銀行の企業評価も変化した。融資の条件も担保主義から、会社の能力評価によるようになったので、新規事業を立ち上げるときに、その事業の可能性・将来性や採算性などが明示的に資料として用意できれば、銀行は金を貸す。そうやって資金を確保し事業を起こし成功を収める可能性はある。しかし、持たざる者にとって、その道はかなり遠い道のりだ。
【2005/12/14 14:38 】 | フォトグラフ | コメント(0) | トラックバック(0)
方法序説
 ルネ・デカルトの『方法序説』を読んだ。1637年、デカルト41歳のとき、オランダのレイデンでヤン・マレイ書店から著者名なしで出版されたものだ。正式なタイトルは『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話〔序説〕。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学』。全体で500ページを超える大著の最初の78ページが『方法序説』である。
 この中でデカルト先生が言っている真理を探究する方法を、少し長いが引用したい。訳書は、岩波書店のワイド版岩波文庫、谷川多佳子訳による。

 「・・・論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという堅い不変の決心をするなら、次の四つの規則で十分だと信じた。

 第一は、私が明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断に含めないこと。・・・(明証)・・・

 第二は、私が検討する難問の一つひとつを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよくとくために必要なだけの小部分に分割すること。・・・(分析)・・・

 第三は、私の思考を順序に従って導くこと。そこでは、もっとも単純で、もっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。・・・(総合)・・・

 そして最後は、すべての場合において、完全な枚挙と全体にわたる見通しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。・・・(枚挙)・・・」

 私は、368年前に書かれたこの真理探究の方法が、現在にも十分通じることを感じている。彼は、この方法が数学の難問題を解くのに役立ち、さらには自然学の諸問題にも適用されるといっている。現に、序説に続けて、「その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」について書いている。
 しかし、私は、自然学(自然科学)だけでなく、社会科学分野にも適用が可能だと思う。私自身がそもそも社会科学を学んでいるのであり、その学びの方法としてこの本を読んだとき、私が自然とやってきた学問の方法に通じるものがある。例えば、第二の「問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること」は、私の学問研究の実践の場としての企業組織の中で、私が、問題解決の方法として、私のスタッフに教えていることと全く同じだし、スタッフの報告を受けて、総合的に点検する私の作業は、まさに、第三、第四の規則に当てはまる作業をやっている。

 デカルトという、日本でいえば江戸時代の初期に生きた人が、現代社会を分析する方法に到達しているという事実に驚くのだ。
【2005/12/12 15:12 】 | モノグラフ | コメント(0) | トラックバック(0)
ペンネーム
 花一(はな はじめ)は、私のペンネームである。花が苗字で、一が名前。このペンネームの由来は、私の父の俳号なのだ。
 ○○ 花呆(かほう)苗字は本名ですので、ここでは伏せておくが、中にはご存知の方がいるかもしれない。
 この父の俳号の名前の部分をペンネームにしようと思ったのだが、呆という字はおろかというような意味であり、確かに自分は愚か者ではあるけれども、ペンネームにそのまま使うことが憚られた。
 そこで、一とすることにした。この字は、物事の始まりといった意味もあり、駄文作家の始まりには相応しいような気がしたのだ。

 ところが、ハナ肇とクレイジーキャッツという一世を風靡したグループがあったことを覚えている諸兄も多いと思うが、言葉の響きだけで、そっちのハナ肇をイメージされることが多い。

 私は、下手の横好きなのだが、インターネット囲碁を時々楽しんでいる。そこでこの間、Yという相手と対戦した。かなり強いのにネット囲碁グループで最低の26級を名乗っているのだが、その方とチャットで口論(?)となった。
 私は下手は下手なりに一生懸命考えながら碁を打っている。だから、一手30秒では碁は打てない。だから持ち時間30分でお願いしたところ、「下手なくせに持ち時間を要求するなんて生意気なんだよ。」ときた。小生意気な餓鬼だなと思い、相手するのは止めようかと思ったが、碁というゲームは、礼に始まり、礼に終わる、紳士的な大人のゲームなのだ。力の差は置石で調整し、強い者と弱い者でも対局できるようになっている。何よりも、碁というゲームの精神性を重んじる私は、こういう輩が碁打ちでいることに我慢がならなくて、一言説教をした。そうしたら「ハナ肇なんていうふざけた名前をつけておいてまじめ腐った説教を垂れるな。」と逆襲してきた。
 こいつはダメだなと思い、対局を投了したのだった。囲碁は非常に高度な戦略を要求されるゲームで、途中の思考が面白いのだ。Yのように勝てば良いというようなことで対局を重ねても、白星が増えるだけで、囲碁の持つ高次元の精神世界にたどり着くことはできない。
 Yよ勝ち星にこだわらず、囲碁の持つ精神世界に足を踏み入れて見なさい。そうすれば、あなたの前には、無限の宇宙が広がっていることに気がつくでしょう。

 それに、ハナ肇さんだって、立派なエンターテナーでしょうが、あなたにふざけた名前呼ばわりされる筋合いはないと思いますよ。
                      −見ず知らずのYへ。
【2005/12/10 11:02 】 | エッセイ | コメント(0) | トラックバック(0)
ネゴシエーション
 今週は、ずっと価格交渉が続いている。11社と色んな話をした。印象に残っているやり取りを振り返ってみる。

 ○×フルというインフルエンザの特効薬がある。鳥インフルエンザなど新型インフルエンザ対策で備蓄することが決まり、国が1050万人分、地方自治体が1050万人分、市場の流通で400万人分を備蓄することになった。それとは別に、今シーズンのインフルエンザの流行に対応するために1500万人分が確保されている。ところが、新型インフルエンザ対策での備蓄が報道されるや否や、買い占めるところが出てきた。
 買占めにより安定供給が困難になることを恐れて、メーカーは昨年実績の13%程度を10月に出荷し、それ以後供給を止めている。メーカーは、インフルエンザの流行に合わせて出荷するので、安定供給は確保すると説明していたのだが、それが全く間に合わない。
 インフルエンザの流行をどう補足するかといえば、全国各地の定点報告を基にするのだが、当然流行が始ってから報告され、その地域に○×フルの供給がなされるわけだから、1〜2週間のタイムラグが生じる。
 感染症の予防の基本は、「水際でたたく」ことだ。それが、流行が報告されてから1週間もずれたらどうなるか、誰もが想像できることだ。しかも、○×フルはインフルエンザ発症後48時間以内服用しなければならないのだ。
 私の得意先の病院のある地域で先々週からインフルエンザが流行し始め、4つの小学校で学級閉鎖も起きている。したがって、その病院ではインフルエンザの患者が急増し、外来は院外処方になっているので、直接困るわけではないが、入院患者さんへの感染、職員への感染が起こっている。しかも○×フルはない。
 高齢の体力の落ちた入院患者さんがインフルエンザに感染するということはどういうことか、それは、文字通り生命の危機に瀕するということに直結する。
 メーカー交渉に参加したその病院の薬局長は、「患者の健康を守る我々の病院で、インフルエンザ感染による高齢者死亡が発生したら、君たちはどう責任を取るんだ。」と怒りをあらわにした。

 勿論、製薬メーカーにとっては、それは商品であり、商品として生産された以上、売れることにより利益を伴って資金の回収ができるのであり、まずは売れることが大事なのだ。しかし、医薬品の場合、間違いなく医療の重要な一部を構成し、特に外来では、薬物療法が治療の主役となっている。おのずと、生命を守るという倫理観がメーカーには求められるのだ。その意味で、○×フルの供給に責任を持つ、T製薬の今回の対応は、大きな問題を投げかけているように思う。
【2005/12/09 18:20 】 | ジャーナル | コメント(18) | トラックバック(0)
ハンナ・アーレント
 ハンナ・アーレントは、私の前に突然現れ、たちまち私の心をとりこにした。

 現代社会は、私を窒息させようとするかのように、抑圧的で好戦的な勢力が権力の中枢に座っている。その、時代の閉塞感に苛まれているのは、私だけではなく、世の多くの人々も亦同じである。それは、さまざまな社会現象を通じて読み取ることができる。例えば、最近のニュース番組は、相次いで子供殺しの事件を報じているし、私の周囲でも、学生たちの中にメンタル面での問題を抱えている子が増えている。両親からの虐待、リストカット、不登校、ニート・・・・・・若者たちの心の闇は深い。そしてまた、その親たちも、リストラ、失業、不倫、離婚、倒産、自殺・・・・・・。

 戦争の世紀と呼ばれた20世紀が終わり、全世界の平和を願った21世紀が始ったが、2001年9月11日のアメリカ合衆国での同時多発テロに端を発し、アフガニスタン侵攻、そして、イラク戦争へと進み、戦争で21世紀の幕が開くという皮肉な経過をたどった。そして、日米安全保障条約の枠組みの中で、憲法9条を踏みにじりながら、日本の自衛隊がイラクでアメリカの戦争の片棒を担いでいる。
 国内では、実体経済と乖離したまま株価の上昇が起こり、大企業を中心に景気は上向いているとされているが、その実態は、労働者・国民からの収奪以外の何物でもない。また、消費の低迷など実体経済の停滞と株価の上昇という矛盾した現象は、バブル崩壊の再来を予感させる。これらは、すべて政権を持っている自民党・公明党の舵取りが間違っていることを物語っている。にもかかわらず、9月の総選挙の結果は、「郵政民営化に賛成か、反対か。」という極端に争点を単純化する小泉氏の選挙戦略がものの見事に的中し、与党の圧倒的勝利に終わった。
 こうして私の感じる閉塞感はさらに色濃くのしかかってきている。そんな時に、ハンナ・アーレントを知った。彼女は、20世紀を代表する政治哲学者の一人だが、残念ながら、これまで私は、彼女の著作を読んだことがなかったのだ。先日、岡山県立図書館で、本を物色していたときに、彼女の名前が目に飛び込んできたのだった。何気なく手にとって読み始めてみると、これがなかなか面白い。特に、彼女の革命論が大いに気に入ったので、何冊かまとめて借りてきたのだ。
 『アーレントとマルクス』(吉田傑俊・佐藤和夫・尾関周二編、大月書店、2003年9月21日)。冒頭の古茂田宏氏の「ハンナ・アーレントの革命論 −自由と胃袋(ネセシティ)の問題 −」が実に良い。この閉塞した時代を変えるためには、革命しかないのではないかと思っていた私に、これが革命だという一つの姿を明示してくれたのだ。
 「革命はさしあたり暴力的で荒々しい権力の交代と生誕を意味する。『革命は直接的かつ必然的に我々をはじまり(beginning)の問題に直面させる唯一の政治的事件』であるが、カインのアベル殺し、ロムルスのレムス殺しの神話を提起するまでもなく『どんなはじまりも暴力なしには成し遂げられなかった』からだ。
 暴力があれば革命が成就するわけではない。クーデターや奴隷反乱や宮廷革命といった暴力的政変は、繰り返し現れたが、それはポリュビォスの言う『政体の循環』のような繰り返しであり、『古代人にはそれらが何か全く新しいものをもたらすようには見えなかった』のだ。
 『革命(revolution)』という言葉にはもともと天体の永遠の『回転』という意味があって、その意味ではこれらの暴力的な政変もレボリューションと言えないわけではないが、こういう前近代的な革命の概念には、『はじまり』は含意されていなかった。
 語の真の意味での革命とは、すぐれて近代的な概念である。『革命の近代的な概念は歴史の進展が突然新しくはじまり・・・・・・全く新しい物語が開幕しようとしているという観念とときがたく結びついているのであるが、そういう概念は、18世紀末の二つの革命以前には知られていなかった。」
 「新しいはじまり」は自由の出現であり、「自由の創設(foundation of freedom)」という理念こそが革命を革命たらしめるのであり、他のいかなる理念のためであれ、自由を犠牲にするような革命は、革命の名に値しないというのが、アーレントの主張だ(ここでいう自由とは、「政治的統治の参加者」になる「政治的自由」を意味する。)。
 実に小気味良い論理展開。時代の閉塞感に浸っている諸兄には是非一読していただきたい。そして、自由を獲得するために、革命を起こそうではないか。
【2005/12/08 21:27 】 | モノグラフ | コメント(33) | トラックバック(0)
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