方法序説
 ルネ・デカルトの『方法序説』を読んだ。1637年、デカルト41歳のとき、オランダのレイデンでヤン・マレイ書店から著者名なしで出版されたものだ。正式なタイトルは『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話〔序説〕。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学』。全体で500ページを超える大著の最初の78ページが『方法序説』である。
 この中でデカルト先生が言っている真理を探究する方法を、少し長いが引用したい。訳書は、岩波書店のワイド版岩波文庫、谷川多佳子訳による。

 「・・・論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという堅い不変の決心をするなら、次の四つの規則で十分だと信じた。

 第一は、私が明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断に含めないこと。・・・(明証)・・・

 第二は、私が検討する難問の一つひとつを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよくとくために必要なだけの小部分に分割すること。・・・(分析)・・・

 第三は、私の思考を順序に従って導くこと。そこでは、もっとも単純で、もっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。・・・(総合)・・・

 そして最後は、すべての場合において、完全な枚挙と全体にわたる見通しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。・・・(枚挙)・・・」

 私は、368年前に書かれたこの真理探究の方法が、現在にも十分通じることを感じている。彼は、この方法が数学の難問題を解くのに役立ち、さらには自然学の諸問題にも適用されるといっている。現に、序説に続けて、「その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学」について書いている。
 しかし、私は、自然学(自然科学)だけでなく、社会科学分野にも適用が可能だと思う。私自身がそもそも社会科学を学んでいるのであり、その学びの方法としてこの本を読んだとき、私が自然とやってきた学問の方法に通じるものがある。例えば、第二の「問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること」は、私の学問研究の実践の場としての企業組織の中で、私が、問題解決の方法として、私のスタッフに教えていることと全く同じだし、スタッフの報告を受けて、総合的に点検する私の作業は、まさに、第三、第四の規則に当てはまる作業をやっている。

 デカルトという、日本でいえば江戸時代の初期に生きた人が、現代社会を分析する方法に到達しているという事実に驚くのだ。
【2005/12/12 15:12 】 | モノグラフ | コメント(0) | トラックバック(0)
ハンナ・アーレント
 ハンナ・アーレントは、私の前に突然現れ、たちまち私の心をとりこにした。

 現代社会は、私を窒息させようとするかのように、抑圧的で好戦的な勢力が権力の中枢に座っている。その、時代の閉塞感に苛まれているのは、私だけではなく、世の多くの人々も亦同じである。それは、さまざまな社会現象を通じて読み取ることができる。例えば、最近のニュース番組は、相次いで子供殺しの事件を報じているし、私の周囲でも、学生たちの中にメンタル面での問題を抱えている子が増えている。両親からの虐待、リストカット、不登校、ニート・・・・・・若者たちの心の闇は深い。そしてまた、その親たちも、リストラ、失業、不倫、離婚、倒産、自殺・・・・・・。

 戦争の世紀と呼ばれた20世紀が終わり、全世界の平和を願った21世紀が始ったが、2001年9月11日のアメリカ合衆国での同時多発テロに端を発し、アフガニスタン侵攻、そして、イラク戦争へと進み、戦争で21世紀の幕が開くという皮肉な経過をたどった。そして、日米安全保障条約の枠組みの中で、憲法9条を踏みにじりながら、日本の自衛隊がイラクでアメリカの戦争の片棒を担いでいる。
 国内では、実体経済と乖離したまま株価の上昇が起こり、大企業を中心に景気は上向いているとされているが、その実態は、労働者・国民からの収奪以外の何物でもない。また、消費の低迷など実体経済の停滞と株価の上昇という矛盾した現象は、バブル崩壊の再来を予感させる。これらは、すべて政権を持っている自民党・公明党の舵取りが間違っていることを物語っている。にもかかわらず、9月の総選挙の結果は、「郵政民営化に賛成か、反対か。」という極端に争点を単純化する小泉氏の選挙戦略がものの見事に的中し、与党の圧倒的勝利に終わった。
 こうして私の感じる閉塞感はさらに色濃くのしかかってきている。そんな時に、ハンナ・アーレントを知った。彼女は、20世紀を代表する政治哲学者の一人だが、残念ながら、これまで私は、彼女の著作を読んだことがなかったのだ。先日、岡山県立図書館で、本を物色していたときに、彼女の名前が目に飛び込んできたのだった。何気なく手にとって読み始めてみると、これがなかなか面白い。特に、彼女の革命論が大いに気に入ったので、何冊かまとめて借りてきたのだ。
 『アーレントとマルクス』(吉田傑俊・佐藤和夫・尾関周二編、大月書店、2003年9月21日)。冒頭の古茂田宏氏の「ハンナ・アーレントの革命論 −自由と胃袋(ネセシティ)の問題 −」が実に良い。この閉塞した時代を変えるためには、革命しかないのではないかと思っていた私に、これが革命だという一つの姿を明示してくれたのだ。
 「革命はさしあたり暴力的で荒々しい権力の交代と生誕を意味する。『革命は直接的かつ必然的に我々をはじまり(beginning)の問題に直面させる唯一の政治的事件』であるが、カインのアベル殺し、ロムルスのレムス殺しの神話を提起するまでもなく『どんなはじまりも暴力なしには成し遂げられなかった』からだ。
 暴力があれば革命が成就するわけではない。クーデターや奴隷反乱や宮廷革命といった暴力的政変は、繰り返し現れたが、それはポリュビォスの言う『政体の循環』のような繰り返しであり、『古代人にはそれらが何か全く新しいものをもたらすようには見えなかった』のだ。
 『革命(revolution)』という言葉にはもともと天体の永遠の『回転』という意味があって、その意味ではこれらの暴力的な政変もレボリューションと言えないわけではないが、こういう前近代的な革命の概念には、『はじまり』は含意されていなかった。
 語の真の意味での革命とは、すぐれて近代的な概念である。『革命の近代的な概念は歴史の進展が突然新しくはじまり・・・・・・全く新しい物語が開幕しようとしているという観念とときがたく結びついているのであるが、そういう概念は、18世紀末の二つの革命以前には知られていなかった。」
 「新しいはじまり」は自由の出現であり、「自由の創設(foundation of freedom)」という理念こそが革命を革命たらしめるのであり、他のいかなる理念のためであれ、自由を犠牲にするような革命は、革命の名に値しないというのが、アーレントの主張だ(ここでいう自由とは、「政治的統治の参加者」になる「政治的自由」を意味する。)。
 実に小気味良い論理展開。時代の閉塞感に浸っている諸兄には是非一読していただきたい。そして、自由を獲得するために、革命を起こそうではないか。
【2005/12/08 21:27 】 | モノグラフ | コメント(33) | トラックバック(0)
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