憲法9条
 私も参加している9条の会のオフィシャル・サイト。


 ご存知の通り、自民党は昨年10月新憲法草案を策定し発表している。

 現行憲法9条第1項(「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」)は残したままで、第2項「和が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする自衛群を保持する。」と、軍隊を持つことを明記している。
 第1項で国際紛争を解決する手段として、戦争と武力の行使を永久に放棄しているにもかかわらず、第2項で軍隊を持つことを明記していることは、一般常識に照らして、明らかに矛盾している。

 そもそも、広島、長崎の原爆投下を体験した日本は、戦争の悲惨さ、生存権を一方的に奪う非人間的な行為に心を痛め、二度とこのようなことが起こらないように、戦争をしないことを皆で誓い、戦争を遂行するための軍隊を持たないことを決意したのではなかったのか。
 第二次世界大戦後の世界の歴史は、朝鮮戦争、ベトナム戦争など戦禍が続く一方で、日本の平和憲法に習い、戦争の放棄と軍隊を持たないことを決意する憲法を持つ国が増えていることを教えている。
 戦争の放棄、軍隊不保持は、世界平和を願う全世界の人々の共通の願いになっているのだ。

 自民党の憲法改正草案は、そんな国際世論に背を向け、軍国主義の日本を復活させ、大東亜共栄圏の妄想にとり憑かれた連中には支持されるかもしれない。だけど、私は支持しない。

 平和憲法を持ったことを誇りに思い、憲法9条を世界に広めることこそ、世界平和を実現する道だと思う。だから私は9条の会に参加し、憲法9条を守るために行動している。



 そもそも、私は日本酒党である。日本酒の長い歴史の中で、日本酒づくりが断絶の危機に瀕した時期がある。それが第二次世界大戦だ。

 「欲しがりません勝つまでは。」「月月火水木金金」、戦時中のスローガンだけれど、戦費調達のため国民には我慢と勤勉を求め、贅沢は敵であり休まず働くという文化を醸成した。日本酒を飲むなどというのは贅沢であり内面の敵だったのだ。そして、戦中、自由に酒を飲むことができたのは、一部の大金持ちと軍属のみだったのだ。

 それだけではない。兵站として米は持っていかれ、徴兵制で若い蔵人は軍人となり、都市近郊の蔵元は直接的に空爆の犠牲を受けた。酒を飲むという文化が否定され、同時に、原料の米がない、作り手がいない、酒蔵が消失するという事態が惹起されたのだ。

 戦後の焼け跡で、飲まれた酒は、バクダン、カストリ、マッコリであり、日本酒ではなかった。蔵が復活するにはしばらく時間がかかった。新しい憲法ができ、国民が自由に酒を飲めるようになった。しかし、肝心の日本酒がない。

 戦禍を逃れた蔵で酒の仕込が始まるのだが、日本酒の需要に供給が追いつかない。そこで考え出されたのが増醸法という日本酒造りの方法だった。

 醪に醸造用アルコールと糖類、水を加え、要するに水増しして日本酒を造る。俗に三増酒と呼ばれたように、元の日本酒の三倍にも水増するのだから旨いはずはない。それでも、日本酒を飲みたいという需要を満たすためには仕方なかったのかもしれないが、それが日本酒離れを引き起こす原因となったのだから皮肉な話としか言いようがない。
 つまり、最初のうち、三増酒でも国民は歓んで飲んだ。しかし、外国からウィスキーやバーボン、ウォッカやラム酒、ワインなど、いわゆる洋酒が入ってくるし、麦酒や焼酎も作られるようになると、不味い日本酒よりも軽いビールが好まれたり、洋酒や焼酎にとってかわられてしまったのだ。

 三増酒は残念ながら今でも造られている。戦前の純米酒に戻した蔵もたくさんあり、日本酒の歴史の中で、今が一番日本酒が美味しくなっているのに、三増酒により日本酒を離れていった酒飲みたちが、それほど日本酒に回帰してこない。だから、蔵がつぶれてしまう。すでに飲めなくなった日本酒の数々。私は残念で仕方がない。

 というようなことで、平和でないと日本酒は飲めないのですよ。だから、私は、平和を愛し、平和を守り、そして、日本の伝統文化としての日本酒が、さらに発展していくことを願ってやまないわけです。
【2006/02/16 10:51 】 | エッセイ | コメント(0) | トラックバック(0)
 今朝、テレビでホリエモンを見た。今年を漢字一文字で表現するよう求められて、彼が色紙に書いたのは『忘』という字だった。「同じことやってると厭きちゃうでしょ。だから、昔のことは忘れて、常に新しいものを求めていく・・・。」というようなことを喋った。司会の女性も、「人間に忘れるという機能があってよかった・・・。」というように受けていたけれど、本当にそうなのだろうか。

 確かに人間は忘れる。しかし、その前提として、覚える、記憶する能力があることが大事ではないのか。本当は、全部のことを覚えておきたいのだが、容量が決まっているので、すべてを覚えておくことはできない。少しづつ、過去のものから、あるいは又、あまり大事でないことから、忘れてしまうのではないのか。そんな気がする。

 本当は覚えておきたいのに、忘れてしまう。「ほら、あの人、あれ誰だっけ。あの番組に出ていた、そういえば、車のコマーシャルにも出てたっけ、あーじれったい。顔は覚えているのに・・・。」などと、上さんが言いはじめると、一寸疲れる。思い出すまで、ああでもない、こうでもないといい続けるのだ。自分のことは棚に上げて、「老人力が身についたな」などと茶化していたのだが、最近、私も同じようなことをいっていることに気がついた。

 「例の契約どうなっているんだ。何、どの契約ですかって。あれに決まってるじゃないか。倉敷の、そう、あれだよ。」って、何のことだか分かったもんじゃない。
 ところが、人間てのはなかなか優れていて、論理的な思考などはほとんど問題がない。というより、経験値が加算され、若い頃よりも、いろいろな角度から検討され、総合されたその判断は、より正確で理路整然としていることの方が多い。
 人間は一生の間に、持っている頭脳の能力の3割くらいしか使っていないというようなことを聴いたことがあるが、たぶん本当だとおもう。学校で学んだこと、その後の社会生活の中で、実践を通じ、あるいは研修会などで繰り返し学んできたことは、すべて自分の中に蓄積され、同じような問題に直面したときに、より簡単に、上手く切り抜けられるようになっていることを経験したことがないだろうか。特に人間関係など、若い頃には全く理解できなかったことが、今では良く判るようになっている。
 うちの職員を見ていても、就職したての頃は、どうしようもなかったのが、何だか頼もしく見えたりするもの。
 つくづく、人間という生き物は、成長し続けるという、他とは区別される優れた特徴を持った生き物だと思う。おそらくは、死の瞬間まで、その成長を止めることはないような気がする。私も、そのように生長し続けて生きたいと思う。

 忘年会シーズンだが、私は、望年会と読んでいる。というか、書いているといった方が良いかな、読み方は一緒だから。今年の嫌な事は忘れてしまおうということなのだろうとは思うが、もう一歩進めて、来年をどんな年にしようか。そんな風に酒を酌み交わしたら、少し、ポジティブに生きることができないだろうか。そんなことを考えながら、今日も赤提灯と縄暖簾に誘われて、居酒屋目指して、さあ行こう。
【2005/12/24 14:31 】 | エッセイ | コメント(0) | トラックバック(0)
ペンネーム
 花一(はな はじめ)は、私のペンネームである。花が苗字で、一が名前。このペンネームの由来は、私の父の俳号なのだ。
 ○○ 花呆(かほう)苗字は本名ですので、ここでは伏せておくが、中にはご存知の方がいるかもしれない。
 この父の俳号の名前の部分をペンネームにしようと思ったのだが、呆という字はおろかというような意味であり、確かに自分は愚か者ではあるけれども、ペンネームにそのまま使うことが憚られた。
 そこで、一とすることにした。この字は、物事の始まりといった意味もあり、駄文作家の始まりには相応しいような気がしたのだ。

 ところが、ハナ肇とクレイジーキャッツという一世を風靡したグループがあったことを覚えている諸兄も多いと思うが、言葉の響きだけで、そっちのハナ肇をイメージされることが多い。

 私は、下手の横好きなのだが、インターネット囲碁を時々楽しんでいる。そこでこの間、Yという相手と対戦した。かなり強いのにネット囲碁グループで最低の26級を名乗っているのだが、その方とチャットで口論(?)となった。
 私は下手は下手なりに一生懸命考えながら碁を打っている。だから、一手30秒では碁は打てない。だから持ち時間30分でお願いしたところ、「下手なくせに持ち時間を要求するなんて生意気なんだよ。」ときた。小生意気な餓鬼だなと思い、相手するのは止めようかと思ったが、碁というゲームは、礼に始まり、礼に終わる、紳士的な大人のゲームなのだ。力の差は置石で調整し、強い者と弱い者でも対局できるようになっている。何よりも、碁というゲームの精神性を重んじる私は、こういう輩が碁打ちでいることに我慢がならなくて、一言説教をした。そうしたら「ハナ肇なんていうふざけた名前をつけておいてまじめ腐った説教を垂れるな。」と逆襲してきた。
 こいつはダメだなと思い、対局を投了したのだった。囲碁は非常に高度な戦略を要求されるゲームで、途中の思考が面白いのだ。Yのように勝てば良いというようなことで対局を重ねても、白星が増えるだけで、囲碁の持つ高次元の精神世界にたどり着くことはできない。
 Yよ勝ち星にこだわらず、囲碁の持つ精神世界に足を踏み入れて見なさい。そうすれば、あなたの前には、無限の宇宙が広がっていることに気がつくでしょう。

 それに、ハナ肇さんだって、立派なエンターテナーでしょうが、あなたにふざけた名前呼ばわりされる筋合いはないと思いますよ。
                      −見ず知らずのYへ。
【2005/12/10 11:02 】 | エッセイ | コメント(0) | トラックバック(0)
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